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困っていそうな子・・・積極的な声掛けを!

2024.07.27 |

あの子、大丈夫かな・・・? 夕暮れの公園にひとりぽつんといます。学校や園がある時間帯なのに、一人で外を歩いていたり。会うと食べ物を欲しがります。そんな、少し気になる子どもたち。周りにいませんか?
(※2024年4月13日 朝日新聞の記事を参考に要約しています。)

声かけが救いになるかもしれません

大山遥さん(NPO法人チャイボラ代表理事)より

数カ月前、あるメディアから「放置子にどう接するべきか」という取材を受けました。「放置子」という言葉を知ったのはその時が初めてでした。子どもの友達が毎日のように家に遊びに来たり、食べ物を要求して居座って帰らなかったりする子どもを指す言葉で、親の「放置」を非難するニュアンスがあるように感じました。

私が働く「チャイボラ」は、児童養護施設などの人員確保や定着のためのサポートをするNPOです。私自身も、今年3月まで非常勤職員として児童養護施設で働いていた経験があります。そのため、取材の依頼を受けたのだと思います。

確かに、街で放置されているように見える子どもたちを見かけることがあります。公園で遊んでいる子どもたちの中には、服が汚れて洗濯されていなかったり、髪にふけが目立ったり、爪が長く汚れていたりする子がいます。他の子のお菓子を「ちょうだい、ちょうだい」とせがむ子もいて、気になって仕方ありません。

「大丈夫? 何か困ったことがあったら言ってね」と声をかけても、「大丈夫じゃない」と答えた子は今まで一人もいません。しかし、このちょっとした声かけが、その子が本当に困ったときの救いになるかもしれないと思っています。

子どもたちとの出会いが教えてくれたこと

私の父は個人塾を経営していました。授業時間以外にも、自宅兼塾には子どもたちが集まり、玄関には運動靴があふれ、私も生徒たちとよく食卓を囲んでいました。

ネグレクト(育児放棄)の子どもや、発達障害や軽い知的障害を持つ子ども、暴力的な子どももいました。進学塾でありながら、父は学業以外の生活全般についても面倒をみていました。人の子でも、必要なときには叱り、私と隔たりなく接していました。問題児ほど卒業後によく遊びに来ていました。子どもにとって、「自分を心から大事に思ってくれる存在」と出会うことがどれだけ大切かを学んだ気がします。

現在、街中で気になる子どもを見かけるとき、その背景には心配が無用なケースから、虐待の兆候が潜むケースまでさまざまあると思います。ただ、誰でも自分の立つ場所で、ほんの一瞬でも子どもの様子を気にかけることはできるのではないでしょうか。何かの兆候を察知するためのアンテナの数がもっと増え、その感度が高まれば、防げる事態もあるのではないかと考えています。

空腹の思い出が今に繋がる

内田千香子さん(「れんげの会子ども食堂」代表)より

東京都大田区で、主にひとり親家庭向けに食堂や無料塾を運営しています。この活動を始めたきっかけは、6年前の出来事でした。近所の餅つきイベントで、お餅を欲しそうに見つめる家族がいました。子どもはお餅を食べたがっていましたが、その場にいた人に意地悪な言葉をかけられ、すぐに手に入れることができませんでした。その様子を見て、「こんな時に子ども食堂をやっていたら、『うちにおいでよ』と言ってあげられるのに」と悔しい思いをしました。そして、翌日には知り合いに声をかけ、2カ月後には子ども食堂を始めました。

その子の目を見た時、自分の子ども時代を思い出しました。貧しくて給食が主食でしたが、土曜日には給食がなく、家には誰もいませんでした。そのため、友達の家におやつを食べに行くのが習慣になっていました。頻繁に行くため、その家のお母さんには嫌われているのが分かっていました。学校の先生も、私の家庭に問題があることに気づいていたと思いますが、親身になってはくれませんでした。

このような経験が、現在の活動に繋がっています。

子どもたちの支援がつなぐ未来

現在も、学校の先生が一人ひとりに十分な手を回せず、行政もそこまで親身にはなってくれないと感じることがあります。しかし、それを補うように子ども食堂や交流スペースなどが増え、親御さんがインターネットで支援につながりやすくなってきています。

私たちの活動では、重い現実に直面することも多いです。相談のメールは午後11時過ぎからが多く、失業や精神疾患で働けず、これからどうしようと悩んだお母さんが、子どもが寝てからすがる思いで連絡をくれるのです。

うちに来る子どもたちは、ヤングケアラーの子、いじめにあって居場所を求めている子、学習障害の子、家庭内暴力を目の当たりにして心が傷ついている子など、さまざまです。一見普通に見える子どもでも、悩み事を相談できずに抱え込んでいることが多いです。不登校や引きこもりの子も、気にかけていなければ見えにくいものです。だからこそ、SOSを見逃さないことがとても大切です。

私は、心配なお母さんや子どもには、「ご飯食べてる?」「家では何して過ごしてるの?」とストレートに聞いてしまいます。大人も子どもも、次第に話をしてくれるようになります。自分のことを気にかけてくれることが伝わるからです。

「踏み込んで大変な思いをするのは嫌だ」と思う人もいるでしょう。それでも、自分で抱えきれない場合は、地元の社会福祉協議会に「子ども食堂や居場所がないか紹介して」と相談するだけでも違うと思います。

親を責めず、社会の支援を

杉山春さん(ルポライター)

家族や児童虐待について取材を続けてきました。この30年で、子育てに使えるお金や時間などの資源は減少しました。懸命に働けば正社員になり生活できる給料や社会保障を得られる、女性が専業主婦になれば一生食べていける、という時代は終わりました。1990年代を境に、共働き世帯と専業主婦世帯の数は逆転しています。

資源が減ったにもかかわらず、家族が子育てをしなければならない、できるはずだというイメージは強まりました。2006年に教育基本法に「父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有する」という文言が加わってから、教育や子育ての現場が徐々に変わりました。

私は、神奈川県相模原市の団地で月2回、仲間と共に子どものための居場所を開いています。そこでは、夜8時になっても家に帰りたがらない子がいます。文字を書けない子も複数いました。それだけ大人の手が入っていないのです。

「放置子」というネットスラングには、昔からある「鍵っ子」という言葉とは異なり、社会からほったらかされているというイメージがあります。「放置」している母親を責めるようなニュアンスも感じます。誰かに「ダメな親」とレッテルを貼るのではなく、親たちがどれだけ余裕を持って幸せに子育てできる環境があるかという構造を問うべきです。

「ダメな親」というレッテルがもたらす弊害

「ダメな親」というレッテルを貼ることの弊害は大きいと感じています。差別的に見られることで、人は自尊感情を傷つけられます。ぎりぎりの状態で子育てをしている人は、けがや被災など不運な出来事で容易に崩れてしまいます。その瞬間に、社会がすっと手を差し伸べることができれば良いと思います。

私は相模原で子どもの居場所を提供し、ある意味「社会」を作る実験をしています。居場所を始めたきっかけは、団地内で放火や徘徊をする子どもたちがいるという訴えを聞いたことでした。子どもたちには、人と出会う体験をしてほしいのです。「人は信頼できる」と感じてもらえれば、自分からSOSを出せるのではないかとも思っています。

しかし、この活動が答えだとは思えません。政治が子育てに真剣に向き合い、適切な予算を投じた施策が必要です。家族が子育てすることを前提とするギリギリの施策ではなく、まずはどの子も一定の基準までは社会が育てるという姿勢が求められます。